憧憬
「自分が本当に望んでいることが何なのか、
理解している人が一体世界の何パーセントいるのかしら?」
彼女はそう言い残し、全てを捨ててこの土地を去った。
彼女に初めて出会ったのは11月の雨上がりだった。
すれ違いざまに目が合った、ただそれだけの始まり。
だがその瞬間、強い意思を持った眼差しに圧倒されたのを今でも鮮明に憶えている。
あの頃、彼女は完璧だった。
地位も名声も人望も、人が望むであろう全てのものがそこにあった。
迷う時、くじけそうな時、何度彼女の強さを思い自分を奮い立たせたか分からない。
彼女は僕の憧れだった。
それは彼女が去った後も変わることはなかった。
6年後の同じ月の雨の日、遠い街で偶然彼女を見かけた。
憧れていたと、尊敬していたと伝えたくて声をかけようとしたが
雑踏と雨音にかき消されるのがオチだと、思いとどめた。
彼女は見知らぬ男性と、まだ小さい子供と一緒だった。
恐らく、もう家庭を持っているのだろう。
彼女自身もまるで別人だった。
あの頃のような強い眼差しは面影もない、
平凡でどこにでもいる普通の女性。
僕は、自分の憧れてきたものを壊された気がしてその場に立ちすくんだ。
だが、幸せそうな彼女の後ろ姿を見送っているうちに、
僕は彼女の最後の言葉をふと思い出し、
そして・・・
彼女に恋をしていたことに、その時初めて気が付いた。
fin.